15年戦争に巻き込まれる一般家庭の日常生活を描き始めた「花子とアン」、語られることの少ない戦争の加害責任と戦場に行かない超エリート軍人の実相を記録しておきたい。
戦場にいた叔父と父
叔父はマラッカ海峡で沈没した軍艦から投げ出されたイギリス兵士が「ヘルプ、ヘルプ」と叫ぶのを見捨ててきたことを酒がまわると泣きながら話していた。弾が貫通した傷跡を見せて「突撃を命じる際、あいつらは、鉄砲の弾は怖がっている者の所に飛んでくると言いやがる」とも。少年は初めて聞く戦争の加害責任と弾が自分の足を貫通した時の痛みで身が震えた。
あいつらの頂点に私の父がいた(独立歩兵大隊長、少佐)。南方で負傷した父は「兄さんのつてで近衛連隊司令部へ配属、熱海での会議は車で送迎、菓子折りが土産、生活は何ひとつ不自由しなかった」と母。
戦争現場に行かない超エリート軍人
「兄さん」は陸軍士官学校では首席、陸軍大学校を卒業し、総力戦研究所では模擬内閣の陸軍大臣に。研究所は昭和16年8月、日米開戦を想定した机上演習を行い「緒戦では勝利するが生産力の差で敗戦は必至」とした。東条は「机上の空論とは言わないが戦争には意外性がある、意外裡の要素を考慮せよ」と報告書を封印、他言無用を命じた。
機関銃の弾と脚力を同等に論じて突撃をけしかける「あいつら」の本当の頂点はここにあった。その東條が極東軍事裁判の取り調べで「何人もあの方には逆らえなかった」と漏らしたことがある。あの方の少しでも有利に講話したい思惑で沖縄戦・ヒロシマ・ナガサキが起き最後はソ連が参戦。関東軍の高級将校は満蒙開拓団を見捨てていち早く飛行機で逃げ帰った。
西川口5丁目 高延 輝夫.